患者に寄り添わない医療

せきどめが入ると、せきが出る不思議」について

2014年6月25日に日経メディカルに載ったコラム: 尾藤誠司の 「ヒポクラテスによろしく」 で、患者に寄り添わない医療に努めています の見出しに引かれた。

医者は患者に寄り添って治療してくれるものと思っていたが、正反対だ。なぜだろうと思ったが、読み進むうちに、なるほど、そうかもしれないとうなずけるところがあったので、そのコラムの一部を引用したい。


私はしばしば若い医師たちに対して、「それは患者に寄り添い過ぎだ」という言葉を使用します。すなわち、私は彼ら・彼女らに「患者に寄り添うな」というメッセージを出しているのです。なんというひどい奴でしょう。ただ、私は、全人的に患者に対峙したいと考えている立派な医師たちが陥る罠として「患者と寄り添ってしまう」ことの患者さんに対する不利益を懸念しています。

 以下に、「寄り添う医療」についての私の抵抗感を徒然に書いてみたいと思います。

その1 寄り添う医療は、自分のレールに患者を引き寄せ、自律性を阻害する
 私は、「自分は基本的に患者のことを理解できていない」という認識に立って診療しています。そのため、私の診療の基本スタンスは、「自分のレールに患者を乗せる」のではなく、「患者が歩いている道を探して伴走する」というものです。

 寄り添う医療は、患者さんと自分の一体感をどうしても重視してしまいがちです。そして、どうしてもそこに自分が走るレールやスピードに患者さんを引き込もうとする意図が生まれてしまうと考えています。さらには、自分の目指す方向や歩くスピードと合わないとき、どうしてもイラッっとしてしまいがちになってしまいます。それはすなわち、患者さんを自分の敷いたレールに乗せ、自分が心地よいと感じるスピードで走ることを強制することなのかもしれません。

その2 寄り添う医療は、患者が自分から離れていくことを制限する
 私は、おそらく他の医師たちよりも外来患者さんを継続的に「ひっぱり」がちです。「良くなったら来なくてもいいですが、一応次回の予約入れておきますねー」が口癖です。

 私の継続外来には、原因がよく分からない体の症状が慢性的に続いている方や、例えば過敏性腸症候群など「機能性疾患」と一括りにされている病気で苦しんでいる方が多くいらっしゃいます。ご存知のようにそのような方々の症状を緩和し、生活への支障をなくすることはなかなか困難ではあるのですが、それでも何割かの人には自分の介入がうまくいったりします。

 一方、なかなか経過が思わしくない患者さんは私の外来からしばしば離れていきます。それを、私は通常追いかけません。「卒業」したのかもしれないし、「他にいい人が見つかった」のかもしれないですが、それは患者さんの自由であって、私がとやかく言うものではないと思っています。ただ、常にいつでもお戻りいただくことを歓迎しています。

 寄り添う医療は、しばしば患者さんが自分のもとから離れていくことについて、患者さんに「うしろめたい」感情を抱かせるのではないかと私は思っています。自分より腕のいい医療者(あるいは、祈祷師とかその他の色々な援助者)にアクセスし、私を自由に捨てる権利を患者さんは持っているはずです。

その3 寄り添う医療は、寄り添えない患者を拒否する
 アルコール依存のある方や人格障害圏にある方の人生や考え方に寄り添うのは医療者としては実に困難で、私も正直理解を大きく超える方にしばしば遭遇します。しかし、自分の理解を大きく超えていたとしても、その人の歩いている道を伴走することは大して困難ではありません。ですから、そのようなタイプの人と専門家として付き合い続けることは、私にとってはむしろ勉強になる貴重な経験です。



以下、その4、その5……と続くが、長くなるので割愛する。

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